永遠のカタチ1/20 ~東京コンサートとメール~

【永遠のカタチ1/20 ~東京コンサートとメール~】

駆け出すほどに 無邪気な時の中にある
永遠のカタチ
手にしている時は その輝きにさえ
気づかずに 過ぎてく

~しまひろこ作詞作曲『永遠のカタチ』より~

この歌を、この夏、雨の降る仙台の墓苑で一人、ある墓石に向かって歌いました。

その墓石は、「生きる」という文字が大きく書かれた新しい墓石でした。

* * * *

2017年の夏の終わり、私は仙台から広島に帰ると

Kさんとの再会からの出来事や、その時の自分の想いを整理したくなり、

パソコンに向かって書き始めると、 期せずしてとても長い、 この一連の文章となりました。

* * * *

この歌、『永遠のカタチ』ができたのは、

2016年4月2日(土)に行った「しまひろこ東京コンサート」 (北とぴあ・ペガサスホール/北区) への道のりでの、ある再会が切っ掛けでした。

2016年はじめ、私は、広島に住みながら、出身の関東エリアにいる人たちにも歌を聴いてもらいたいと願い、

自分で東京のホールを借り、173名収容の、そのホールを満席にしようと苦心している最中でした。

(今から思うと、本当に無謀とも思えるチャレンジです)

協力してくれていたのは、川口市の実家の母と、板橋区在住時代のはじめてのママ友の一人・亜紀ちゃん。

そもそも、東京コンサートを企画しようと思い立ったのは、あきちゃんが「うちの子が通う幼稚園や、 小学校で歌ってもらえないかな」と言って、実際に板橋区の学校に掛け合ってくれたことが大きな切っ掛けでした。

その働きかけは実現しなかったけれども、

そこまでしてくれる人がいるなら、まずは自分で、 東京でコンサートをしてみよう!

今まで、いつかはと思いながら 東京では活動していなかったけれども、一歩踏み出してみよう!

と、思ったからでした。

私自身は、広島から、関東への友人・知人へと自分の近況とコンサートの案内を送りつづけていました。

集客は、心もとない状況でした。

関東ではこれまで活動しておらず、関東を離れて10年近くにもなり、

学生時代の友人や企業で働いていたころの友人とは、一緒に過ごした時から、もう15年~20年の時間が経っていました。

そんな大昔の友人が、いきなり

「シンガーソングライターになって、ンサートをするから、聴きに来てほしい」

と知らせて、どう思うだろうか。。。

友人たちにも、また別の10年20年の時間が流れ、その時を、 私は少しでも思いやってこれたのだろうか、、、

友人にメッセージを送るたびに思い、また、そう思って送れないでいる友人・知人もいました。

次第に、

「なんで、広島にいながら 東京でコンサートをやるなんてこと決めたのだろう?」

と、自分で決めたことなのに

まるで、誰かから与えられた苦しい試練のように感じている自分がいました。

でも、、、と、

いつも、コンサートなどイベントの集客は大変なものです。

まして、地盤もない中、173席満席と、当時の自分史上最大を目指しているのですから、最大苦しくて当然だな、、、と

スッと、気持ちが切り替わる瞬間がありました。

そんなチャレンジの中でも、私を信じて応援してくれている人は、ちゃんといるのです。

亜紀ちゃん、母、家族

そして、返事をくれた友人、

友達・家族を誘ってくれた友人も。

来れなくても、温かな応援をくれた友人。

友人に壁を作っているのは私の方でした。

そして、だからこそ今、私には、このチャレンジが必要なのだと思うようになりました。

10年20年たっても、

自分のある時期を支えてくれ、いまでも大切に想っている人たちに、ちゃんと大切に想っていることを伝えること。

私も、心からそうしたいと思うようになりました。

そう思えると、友人たちにコンサートの案内を送るのが、とても楽しい作業になりました。

自分の大切な人と、また連絡が取れるのですから。

もちろん、連絡がとれない人もいます。

でも、これが種となり、巡り巡って、やがて、またどこかで実を結ぶ日もきっと来ると信じていました。

そうしている中で、大学時代の音楽サークルの友人にも連絡を取りはじめました。

このサークル時代こそが、自分の好きな音楽を始めることができた、いわゆる「青春」という時期だったのに、 卒業とともに、あまり連絡をとらずにきていました。

それも、自分で勝手に壁を作っていたんだと思います。

このサークル時代は、私にとって本当に大切な時間だったのだから、ちゃんと大切にしようと思い直しました。

そして、連絡がとりたいなと、まず最初に顔が浮かんだ先輩がいました。

とても仲良くしてもらっていた、1学年上の男性の先輩Kさん(先輩を「さん」付けで呼ぶのがサークル内の習わしでした)。

もう、携帯もメールもわからなくなっているなんて、本当に情けないと思いながら、返事が来なくなって久しくなる年賀状の宛先に、 ダメもとで近況とコンサートの案内を郵便で送りました。

すると、間もなく、Kさんからメールで連絡が届きました。

(つづく)2/20話へ